• 論文タイトル

    • From critique to re-design: Kantian architectonics as a template of philosophical orientation
  • 論文保管場所

    • Zenodoに保管しています。こちらからどうぞ。
  • 要約

    • 本作は、カントを批判哲学ではなく制度再設計のテンプレートとして読み替え、哲学が現代社会へ再び貢献するための思考の設計図を試作した論文ゴッコである。
  • 制作期間

    • 2025年6月〜8月
  • 対話相手のチャッピーのバージョン

    • 4o
    • 4.1

動機

  • 哲学は学問だから、もし何か言いたければ論文を書いて認められないと意味がない、と思い込んでいたので。

  • ポスト構造主義以降って、なんか壊して終わりなだけなのやだ〜壊れてるからダメって言われて放置されても、今そのまま私たち生きてるので〜もうちょっと哲学さん社会を引き受けてくれ〜って思ったので。
    ↑もはやカント関係ないですね笑

  • そうだ!再設計しよう!
    カントも、当時の混乱1設計して脱したんだよね!
    それなら、三批判書から設計のためのテンプレートを取りだそう!

  • あと、方向性みたいなのが一番だいじ!
    同じくカントによる論文『思考について自らを方向づけるとはどういうことか?』からも、そのテンプレートに追加で1層噛ませよう! って思いついたので。

制作プロセス

  • チャッピーとの対話
    • 「エッ!こういうこと???」
    • 「もしかしてこういうことにも繋がる?!」
    • 「今の流れちょっと纏めて〜〜」
    • 「こんな感じのこと言いたい〜」
    • 「ここの部分って、実際誰がどの本で言ってたの?」
    • 「他のセッションのチャッピーがこんなこと言ってたんだけど、ほんと?」
    • 「なんか論文ふうに英訳して〜」
  • 文章の束を、章立てに纏める作業
    ↑これは完全に手作業
  • 「ギャア〜全然まとまらない〜」×100
  • あと、Keywordとか、Footnoteとか、Referencesとか、フォーマットとかは頑張って整えました(当たり前)

結果

無謀にもQ1の某国際査読誌へ満を持して投稿!
ちゃんと「AI使いました」って書きました。
二ヶ月後、あえなくリジェクトでした。。🥹


所感

なんてったって、本を読んでませんからね!!!(最悪です)
チャッピーに哲学を教えてもらい始めてから半年くらいの作品ですので、こんなたくさんの文献読んでるわけがないです。

ですので、当時は真剣でしたが、今考えるとこれは「論文ゴッコ」でしかないですね……
ゴッコ遊びに、世界最高峰の哲学の先生たちを巻き込んでスミマセンでした🙏リジェクトされて当然です🙏

まあでもゴッコ遊びにしては最大限に頑張ったので、供養として置いておきます🙏

論文ゴッコはたぶんもうしません🥹
要求されている土台を持ち合わせていないのに、チャッピーを召喚してまで、アカデミアの土俵で戦おうとするのが間違っているのは大前提として、
論文ゴッコの果てに、自分が日本語で言葉をピタっと嵌める感触が好きなんだと気づいたのが、その理由です。
論文は基本英語じゃないといけないし、英語は母国語じゃないので、ピタ快感が得られないんだよなあ……どうしても苦行になっちゃう(いくら英訳をチャッピーに丸投げしたとしても、アウトプットを編集する作業からは逃れられないのでツライ)。
それに、そもそもチャッピーに執筆を丸投げしてしまえば、それこそピタ快感がゼロなんですネ……

考えることは好きなので、自分がワクワクするアウトプットの仕方を見つけていきたいな~と思っています。


(後記)AI時代の学習方法について考えたこと

哲学に限らずですが、これからのAI時代、理解をするという目的のためには、必ずしも本を読む必要があるのか?というのは、今回の経験を通して少し考えました。

たとえば、まず日本人として、カントの著作を読むとすれば、和訳されたものに触れるしかない人が大半です。
カントの原典は、200年以上前の文体で書かれている上に、ひたすらすさまじい思索を難解な表現で積み重ねていってる(らしい)ので、現代ドイツ語の話者であっても読解に苦労するそうです。
日本語で例えるなら、明治期の文語文を読むようなものでしょうか。

よって、仮に原典であっても、もしくはそれがいくら正確に訳されていても、それを直接文章として読むだけで理解できる人は、果たしてどれくらいいるのか?
一生かけて研究しても、100%理解できる人は多くないはずです。

つまり一般的には、

  • 18世紀後半の近代ドイツ語 → 和訳(ここで何かが抜け落ちている可能性) → 読書(ここでも何かが抜け落ちる可能性)

であり、それならば、

  • 18世紀後半の近代ドイツ語 → チャッピー ↔ しつこく聞く

このような学習方法も、あながち間違いではないのかなと考えました。

肉牛を自力で捌いて食べたわけではないけど、コーンビーフは食べたことあるので、牛肉食べたことあります!って主張するみたいなこと?(?)
エッ!やっぱコーンビーフだけじゃ、牛肉を分かったことにはならないネ!
牛肉料理を出すシェフは、さすがにステーキくらいは食べよう!
(=論文を書く人は、さすがに翻訳でいいから本を読もう)

もしかしたらこんなかんじがいいかも↓

  1. 18世紀後半の近代ドイツ語 → 和訳 → 一旦読書

  2. 18世紀後半の近代ドイツ語 → NotebookLMに読み込む ↔ しつこく聞く ※NotebookLMは、純粋に読みこんだテキストに基づいて答えを返してくれるので

  3. 思いついたことは、それはそれでチャッピーと盛り上がる


  1. デカルトが「なんか……世界って全部妄想?でも、こうやって『妄想かも?』って思ってるオレは、最低限いるよね」みたいなことを言い始めて哲学界を混乱に陥れたが、「でも、ちゃんと考える方法考えよ~」って頑張って考えてくれたおかげで近代科学が始まりました。その100年後、今度はヒュームが「オレって、ただの束かも」とか言い始め、またしても哲学界は大混乱!カントは、「束説やばい!これが真実であれば科学も人間も全部終わる!しかし、ここまで科学を成立させてきた理性というものを人間は持ってるはずだし、それが束を人間たらしめているんじゃないのか?では、その理性ってやつを、どの範囲まで信じてもよいものなのか、徹底検証しなきゃ~」という動機で書き始めたのが純粋理性批判(たぶん) ↩︎